地域における行事や民俗を伝え継ぐために大切なのは、その地域に暮らす人々がどのようにそれらを〝受容してきたのか〟を知ること。飯綱町だけみても、ひとくくりにはできません。
農家にとって、季節の節目は大切なものだった。農作業の区切りであったり、その年の収穫を祝うものであったり、次の年の豊作を祈るものであったり、季節の節目には、農に関わるさまざまな行事があった。今では廃れてしまった行事も数限りない。しかしその行事に込められた思いを紐解くと、その土地に暮らしていた人々が、何を思い、何に感謝し、何を受け入れてきたのかの、ほんの一端を感じることができる。 地域に受け継がれてきた伝統文化や暦の意味を伝え継ぐのも、農産物直売所や加工所の役割のひとつ。飯綱町の農家にとって、お正月とはどんな節目だったのか。いいづな歴史ふれあい館学芸員・小山丈夫さんと、飯綱町の風土とともにお正月の暦を紐解いた。(語る人・小山丈夫さん/いいづな歴史ふれあい館学芸員 文責・編集部)
12月25日頃〜
松迎え
お正月に飾る「松」は三段松(3本の枝に分かれた松)が良しとされ、25日頃になると山に取りに行きました。飯綱町はもともと善光寺などがある長野盆地への木材供給エリアでもありました。松は囲炉裏や竈に火を移す「付つけ木ぎ(松材を極薄板に加工し硫黄をつけたもの)」づくりに使われる木材でもありました。飯綱町の平出地区には近隣に付木に適した松材が多く、江戸時代から付木づくりが盛んで、山と密接な関係性を持っていた地域でもありました。
12月28・30日
餅つき・松飾り
ハレの日に餅は欠かせません。とくにお正月の餅つきは特別なものでした。普段は古米を食べるのが常でしたが、お正月だけは新米のもち米で餅を搗きました。もち米は品種としての強さもあります。かつては、年貢や売る米としてうるち米をつくっていたので、昔からもち米を作ることは、農家にとってリスク分散のひとつでもあったのでしょう。「苦餅」に通じるとして29日を避ける家が多かったようですが、地域の歴史性や伝承から、あえて29日に搗くという家もあると聞いたことがあります。
「松飾り」も28日頃までに行う家が多く「三段松にごぼう締め」という形が、この地域の相場のようです。
12月31日
お年取り(大晦日)
飯綱町では「お年取り」である大晦日に一番豪華な料理を食べました。長野県の北信地域の年取り魚といえば鮭。「年神様」をお迎えする、という考えはもちろん持っていただろうと思いますが、とにもかくにも1年のうちの大切な節目、ハレの日だったのだろうと思います。
1月1日
元旦
飯綱町に伝わるお雑煮は、しょうゆ味の汁に冬に採れる青菜などの野菜とお餅を入れ、甘いクルミだれをかける、という特徴があります。クルミは欠かせないものらしく、「昔は川べりによく拾いに行った」という話も聞きます。クルミはこの地域にいわれのある産物。牟礼地区は、もともと牟礼宿と呼ばれた宿場町があり、クルミが取引品として流通していた記録もあります。今でもクルミの生産が盛んなのは東御市ですが、信州の中でも千曲川流域近隣はもともとクルミに関わりのある地域だったのかもしれません。ただ家によってはゴマをかけた所もあったようで、これも各家庭、地域の風土によって、少しずつ違いがありました。
もうひとつ、お雑煮に欠かせないのが練り物でした。牟礼地区は、北国街道の宿場町で、昔からぎりぎり新鮮な魚が手に入る地域。ちくわや蒲鉾などの練り物も比較的流通していたのだろうと思います。ちなみに収穫を祝う秋祭りには今でも「ちくわの天ぷら」が欠かせないそうです。
1月2日
いも汁を食べる
1月3日
七草がゆを食べる
1月4日
鏡開き
1月5日
ものづくり(道祖神・もめん玉づくり)
今では行っている家も少なくなってしまいましたが、14日~15日の頃に行われる「小正月」の行事は、農業と密接な関わりがあります。飯綱町では、1月14日に行う一連の行事のことを「ものづくり」といいました。この日は「道祖神(道陸神:ドウロクジン)」と呼ぶ、ヌルデの木でつくった人形を飾りました。ヌルデの木は縁起のいい木とされ、それで男女の人形を作り、和紙で服を着せ、一升ますに入れて飾ります。ウルシ科のヌルデは柔らかく加工しやすい木で、かつては染料などにも使われました。この道祖神を作るために、前年のうちに切り出し乾燥させておく必要もあったようです。今ではこの道祖神づくりができる人もわずかになってしまいました。ただ三水地区にはこの道祖神を奉納する祠があり、毎年人形が増えています。まだわずかに行っている人がいるのでしょう。
またこの日は「もめん玉」を作ります。全国的には「まゆ玉」と呼ばれますが、この地域では「もめん玉」と呼ぶ人が多かった。米粉で団子を作り、柳の木や水木の枝先に刺し飾るのですが、これを木綿の花になぞらえて呼んだものでしょう。江戸時代には千曲川沿岸は木綿の産地でした。飯綱町では高冷で木綿はあまり育ちませんので、善光寺町で11月下旬に行われるエビス講の売り出しにいって木綿を仕入れ、冬場の農閑期にこれを紡いで白布織りをしていました。近代に入り木綿は養蚕にとって代わられましたが、過去の木綿の記憶はこの地域にとって大きなものだったのかもしれません。また道祖神と同じくヌルデの木で農具のミニチュアをつくり、もめん玉に飾ったという人もいます。
これら一連の「ものづくり」行事は、実りへの予祝いだったのだろうと思われます。これからの1年が豊作であるようにとの祈りが込められました。
1月14日
道具の年取り
〝道具にも魂が宿る〟と考えたかつての人々は、道具を飾り、供え物をして年取りをさせました。それもこれからの1年、道具に「いい仕事をしてもらうため」だったのでしょう。色々なものにすがりながら、感謝をしながら、これからの1年無事に過ごせるように祈りました。
1月15日
どんど焼き
「どんど焼き」は全国的にもみられる火祭りです。やぐらを立て、松飾りや14日に作った道祖神などを焚き上げました。
1月15〜18日
小豆粥・成木ぜめ
1月15日の小正月の日に食べられていたのが「小豆粥」。赤飯もそうですが、赤い米はハレのものでした。15日頃に行われた「成木ぜめ」は農家の家々に植えられることの多かったあんずや柿の木などの「実の成る木」=「成木」に行っていた風習でした。木にナタで少し傷をつけ(まねだけのことも)、ヌルデの箸で小豆粥をすりこみ、2人1組となり「成るか成らぬか」という問答をします。他の市町村では行っている所もありますが、飯綱町では、ほとんど行われなくなってしまった風習です。
「小豆」に関わる行事がもうひとつありました。それが「小豆焼き」です。小豆を使って吉凶を占うもので、行うのは主に地域の若い衆。どんど焼きは子どもの行事ですが、それが終わった後に行われました。当番の家に行き、囲炉裏の火の上で鉄製(もしくは素焼き)の皿を焼き、小豆を乗せ、跳ね回る様子で、「今年の作柄はどうか」「世の中の様子は」などを占いました。飯綱町普光寺地区で、昭和の戦後までこの「小豆焼き」を行っていたという記録が残っています。かつては飯綱町内の各地区で、当たり前のように行われていたものだったようで、近隣には今も小豆焼き行事の風習が残る市町村があります。酒を飲みながら夜通し行われるため、正式な占いが終わると、そのうち「あの家の娘とうちの息子の相性は」といった占いも行われたようですね。
インタビュー with 小山丈夫さん
行事に込められた思いを受け継ぐ大切さ
農家は農事の区切り区切りに様々な行事を行い、その時に食べるものも決まっていました。日本人が経験している稲の作付けは、二毛作などでない限り、たかだか数千回。人一人が経験するのは、100回にも満たないでしょう。工業製品が1年のうちに何万回ものトライ&エラーを繰り返すのに比べれば、農業における経験の積み重ねがいかに難しいものかが分かります。山の神様、川の神様、田の神様…さまざまなものにすがり、感謝し、それだけでなく、農具や動物、ありとあらゆるものに協力してもらわなければ暮らしていけなかったのだと思います。「やるべき行事をやらなければ報われないのでは」という思いも、こうした行事が受け継がれてきた中にはあったのでしょう。
そうした感覚は、現代にもあるのではないでしょうか。今でも、気候も作柄も、毎年異なりますよね。
現代では廃れ、忘れられてしまった行事や風習がたくさんあります。しかし地域によっては、そうした風習や背景、意味を覚えている人たちにまだ会うことができます。しかし世代がかわり徐々にそれも大変になってきましたね。
かつての暦どおりの行事が現代に合わないのであれば、行事に込められた思いを受け継がせることを主眼にして、変化させていってもいいのかもしれませんね。
(参考文献:飯綱町の食ごよみ 飯綱町/発行・編集)
※この記事は「産直コペルvol.39(2020年1月号)」に掲載されたものです。